ユーコさん勝手におしゃべり

1月26日
 先日、房総半島へ小旅行をした。一泊した朝、海沿いのホテルの窓から日の出を見た。水平線のあたりには薄く雲があり、水と雲を抜けて少しずつ赤く燃えたお日様が顔を出す。それは色といい形といい、まるで美しいいくらのような太陽だった。「今年始めてみた日の出だから、初日の出」と勝手に解釈して、目出たい気分にひたった。
 ホテルを出てから松林で松ぼっくりを拾った。以前ペットショップでうさぎのかじり木用として松ぼっくりを売っているのを見かけてから、いつか自分で調達しようと思っていたのだ。さすがに販売用のものはみごとな大きさで、かさもきれいに開いていた。自分でちょいと拾うくらいでは眼鏡にかなう松ぼっくりはなかなかなく、それでもなるべく痛んでいないものをいくつか拾って帰った。9歳になるうちのうさぎへのお土産である。虫が居るかもしれないので、保存のことを考えて鍋で煮沸し、天日干しすることにした。
 翌朝、煮てほかほかの松ぼっくりを持って、外に出た。自転車の前籠に入れて干そうとしたら、1個コロコロと道路にころがってしまった。ちょうど中学生の女の子が二人歩いていた目の前に落ち、一人が拾ってくれた。いきなり降ってきたあったかい松ぼっくりに彼女はけげんな顔をしていて、こちらも微妙なテレ笑いで時が止まったような一瞬ののち、二人の手がお互いの方へ伸びた。「どうもありがとう」と受け取って前籠に入れた。
 彼女たちが行き過ぎた後、今が入試時期であることを思い出した。時間的に考えて、高校入試の願書提出か試験に向かうところだったのだろう。お家によっては「落ちる」とか「落とす」ということばを使わないようにもしているだろうに、当日いきなり目の前に松ぼっくりが「落ちて」きたなんて、縁起悪いと思われやしないかと心配になった。でもそれを拾い上げて救ったんだから「凶転じて吉」と思ってくれるかなと、心にひっかかっていた。
 そして、丸2日外に干した松ぼっくりを今朝とりこんだ。松ぼっくりの姿を見た瞬間、パッと自分が笑顔になるのがわかった。全部の松ぼっくりのかさがきれいに開き、クリスマスリース用に売っているのと同じような状態になっていた。早速うさぎにあげると、喜んで首筋になすりつけたりかじったりしてくれた。
 そして、何より、あの女子中学生に心の中で告げた。「あの日拾ってくれた松ぼっくり、こんなに花開いてるよ。きっと合格だよ!」

1月16日
 書店にいると書棚から本に呼びかけられた気がしてその本を買ってしまう、というはなしをよく聞く。私もそんな経験がある。しかし何年も見慣れた自店の棚で、いつものラインナップの岩波文庫の棚から声がかかるとは思わなかった。何とはなしに著者名に目を通していたら突然中勘助が、「自分を読んでごらん」と言ってきたのだ。一冊手に取ると帯文が「どうだ おもしろそうだろう」と誘ってくる。「ふーん」と店にあった5冊の中勘助を次々抜き取った。
 そしてただいま、中勘助ワールドにはまっている。時代を感じさせない文なのに、読むうちに勘助と同時代にいきたくなる。竹久夢二ではないけれど「早く昔になれば好いのに」である。

1月15日
 ふくふくとビオラが笑っている。パンジーやビオラは、花がみなこちらを向いて咲く。スラリと背筋を伸ばし、上を向いて咲く花は豪華だけれど、愛くるしさではパンジーやビオラにかなわない。日が少しずつ伸びてきて、いつもの道にも少しずつ花が増えてきた。今はまだ寒くても、今年も春が来る、と確信できるだけでうれしい。

1月10日
 好きなアーティストの新曲が出たと聞いても、それが話題の映画の主題歌だと知ると、ガッカリする。汚れた感じがしてしまうのだ。色がついたと言い換えてもいい。その映画のスポットCMや紹介番組で、サビのところだけを何度もきかされると思うと、新鮮な気持で一曲を聴きとおす気力がなくなってしまう。
 市販の芳香剤しか嗅いだことがないと、本物のその花の香りを「陳腐なにおい」と感じることがある。表面の芳香剤のにおいが鼻につき、生花を前にしても花の香りまで到達しないのだ。
 メロディにストーリーをのせることのできるアーティストに主題歌をつくらせたいという図式は、宣伝とか商業主義に染まっていない「新鮮」を手に入れたいファンの気持と相容れない。
 「そのうち出るベストアルバムできけばいい。その頃にはもう「○○」の主題歌であるという先入観は洗われていて、一曲としてきけるだろう。」 と自分に折り合いをつけた。

1月7日
 お正月読書週間が終わった。年始をいいわけに、いつもより本を読む時間を多くとり、この年末年始は、読みたかった本をまとめ読みした。しかし、その幸福感とはうらはらに、目をつぶるところには目をつぶってつくった時間のカスは、階段のスミやイスの後ろに着々と蓄積する。 遠藤周作曰く、
 「そう。悪魔は埃に似ています。部屋のなかの埃には私たちはよほど注意しないと絶対に気がつきません。埃は目だたず、わからぬように部屋に溜っていきます。…悪魔もまたそうです。」(『真昼の悪魔』より)
 年末に軽く掃除をしたけれど、年始は年始でほこりはたまる。さいごの一冊がちょうどこの本で、背中を押されるかたちになり、今朝は重い腰を上げて掃除機をかけた。
 趣味も家事も仕事も楽々こなして、「きれいでできる私」なんて、どうやったら誕生するのでしょう。

1月2日
 先を読まなければならないゲームがてんで苦手である。
 筆頭が将棋。ルールくらいは何とか知っているけれど、自分がやる姿は想像もつかない。高校の時、隣の席の男の子がたまたま将棋ファンで、前の席の友人と授業の合間の休み時間のたび、「9五歩」「3四銀」…と言っていた。先生が来ると前列の子はクルリと前を向き、次の休み時間にまた続きをする。実際の将棋盤があっても、どうしたらいいものか手の出せないものを、頭の中だけでやってしまうなんて…。自分に出来ないことをする人はそれが何でも、スゴイと思う。将棋を趣味とする人の頭の中はどうなっているのだろうと、青年の頃から今でも思う。ましてやプロ棋士なんて、まったく自分とは別世界だった。
 でも数年前、新聞で、大崎善生著『聖の青春』の出版広告を見た時、「この本は絶対面白い」と直感した。プロ棋士村上聖の話だが、棋士を写したカバーの写真がよかったからかもしれない。すぐに買って読んだ。将棋を知らなくても読ませる力があり、思った以上の作品だった。それから大崎善生は、時々思い出しては何冊か読んだ。そして暮れに『将棋の子』を読んでいなかったことに気付き、古書店で一冊求めた。
 読み始めて二日目の12月29日、新聞を開けると、「二人の元奨励会員30代でプロ再挑戦」の小さな記事が目に入ってきた。奨励会を26歳の年齢制限で退会した人の「三段リーグ編入試験」が5月に制度化され、初の受験者となる二名の名前が載っている。その一人が、『将棋の子』のプロローグのところに出ていた一人だった。思わず記事を切り抜き、本の見返にはさみこんだ。
 見返には、著者の献呈署名が入っている。たまたまそれと知らず求めた本が署名本だったのだ。読まれた形跡のないまっさらの本だったが、切り抜き記事をはさみ入れ、「すっかり古本っぽくなっちゃったね」と、本に話しかけた。

2006年12月のユーコさん勝手におしゃべり
2006年11月のユーコさん勝手におしゃべり
それ以前の
「おしゃべり」