『ユーコさん勝手におしゃべり』 バックナンバー目次


2月25日
 最初の記憶は3歳か4歳。その頃私の家は東京から横浜へ引っ越すことになった。それまで毎日通っていた保育園の門扉につかまって、私は園庭で遊ぶ子を見ている。保育園はもう退園したが、引越しの日まではまだ間があったのだろう。前後の詳しい記憶はないがその場面だけ、一枚の古い写真のように私の脳にある。でも何かおかしい。だって、その記憶の場面には、後ろ姿の私がいる。服装も顔つきもわからないが、門にぶらさがるようにつかまっているのは確かに私だ。私が私を後ろから見るなんてちょっと変だ。ではこれは夢の一種のようなもので本当の記憶ではないのだろうか。家に同居していたおば(母の妹)は、「ちっちゃい頃の記憶なんて、こんなことがあったのよと周りの人が話してくれたり、その頃の写真を見たりして、覚えているように錯覚しているだけよ」と言っていたが、この記憶だけは本当の最初の記憶だと思っていたのだが、どうなのだろう。いったい脳は、その絵をどのように収納しているのだろうか。
 記憶の引き出し、といえば、思い出そうとしても思い出せないのにある日突然それが開くことがあるのは何故だろう。
 中学の頃、教科書に八木重吉の詩「雨」がのっていた。私はえらく感激して、彼の詩集を近所の本屋で探したがなかった。詩だけは覚えていたが、八木重吉という名前は忘れてしまって何年かたち、私は大学生となった。ある日何か用があって学校の図書館にいたら、何の脈絡もなく「八木重吉」という名前がパッと頭に浮かんだ。「ア、そうだ。そうだった。」私は確信して、すぐ古本屋街に行った。かくして彼の詩集は私をそこで待っていた。赤と青の2冊組の八木重吉詩集を買って踊るように帰宅した。彼の「雨」は何年たっても変わらぬ感動を私に与えてくれた。「やっと逢えたね」という気持ちだった。でもなぜ、その名前を忘れてしまったのか、そして突然思い出したのかは、今でも不思議である。

2月17日
 書評欄が好きだ。日曜日、新聞の書評欄は欠かさず読む。それ自体を楽しんでいるので、書評が良かったからその本を買って読むというわけではない。だいたい本を読むのは遅い方なので、毎週そんなに多くの本を片付けられない。心の片隅において、たまたま新刊屋さんへ行った時さわってみるくらいである。書評欄を、書評している人のエッセイを読むつもりで読んでいるのかもしれない。普段店の棚の本をつまんで読むことが多いので、書評欄に出ているような生まれたての本はあまり読んでいない。でもたまに、○○書店ベストテンの中に自分の読んだ本が入っていると「ふんふん、まだ売れておるのか。私はもう読んだぞ」とピクピク鼻が動く気分になる。
 書評欄の本は買わないけど、新聞の下の方の出版社の広告を見て本を買うことはたまにある。これは絶対面白いと思って買った本が、しばらくしてみるみる売れてくると、「ほうらね」とうれしい気分になる。

2月14日
 冬の花壇は花が少なくて淋しい。プラス、冬の外仕事は寒い。そこで今までプランターの雑草たちを、放置していた。早春に白い小さな花を咲かせてくれるのもかわいい、と思っていた。にもかかわらず、先日、プランターの草取りをした。真冬に緑を絶やさず、さあこれからのびのびするぞ、と思っている草たちを抜くと下には、お花屋さんで値段をつけられて売っているチューリップやクロッカスの芽がスックと伸びている。美しくまっすぐなそれらに感動しつつも、抜かれた草たちに心でわび、「君達を無駄にはしないからね」と声をかけて、土を取り、うさぎに与えた。うさぎは喜んで食べた。うれしくさびしい春のできごとだった。

2月8日
とんで来た とんで来た、スギ花粉。今日は朝からクシャミがでて、ティッシュのお世話になっている。脳みその方はすっかり忘却力が強くなり、「こないだ○○って言ったよね」と聞かれても、「いやぁ覚えてないな。忘れた。」と答えることが多くなったが、身体の方は記憶力よろしく、きっちりと春が来たと反応している。今日から症状が出たんだから、家でおとなしくしておればいいものを、晴れてあったかそうな空を見ると、つい外へ出たくなり、自転車に乗って花屋へ行き、デイジーを買ってきた。明日はプランターの草取りをしよう、と鼻水をすすりつつも、ウキウキしている。

 「手堅い人間」と、本当は今日のおしゃべりを書き出そうと思っていた。「手堅い人間に私はなりたい」と。仕事でミスをして落ち込んだ時、頭に浮かんだことばである。それを口に出して言ってみると一部周囲の人から「あんたにそれは無理だ」と言われ、自分の内なる声も「むいてないだろう」とささやく。時々ポカッと失敗をする。今まで何度か顔から火をふいてきた。反省する。地道に手堅く、もっと着実な人間にならねばと思う。だがしかし、時がたち、数々の失敗がそれぞれ自分の中で時効となった時、それらはきっと「あんなこともあった」「こんなこともあった」と思い出の種になるだろう。話の種にするためにわざわざ間違いをおかすわけでは、誓って決してないけれど、努力はしつつ、春に浮かれる自分もそれはそれでいいじゃないかと思った今朝であった。

2月5日
 ここ数日気になっていることばがある。それは、自宅にテレビをおいていない御婦人からの新聞投書の一文で、「子供が幼児の頃、夕方になるとわけもなくシクシク泣いていた」というものだった。その人が自分の母親に相談すると、「あなたも小さい頃、夕げの支度をしている私のエプロンのはじっこを持ってよく泣いていた」と言われたというのだ。夕方のもの悲しい気分を感じ取って子供は泣く。そして学ぶ。今ではたいていの家庭ではこうではないだろう。夕方はアニメがあって、テレビを楽しみに子供は帰宅する。にぎやかなコマーシャル、鮮やかな色。あるいはゲーム。 今日の一日が終わるということ、そして明日が必ず来ると確証はないことを考える暇もなく、時間に追われ就寝する。自分の生活もそうかもしれない。ちょっと寂しい時、それを手軽に埋めるものが周りにたくさんある。テレビ、ラジオ、パソコン…。 電力を使って、貴重な孤独を埋めている。空想に費やす時間を無意識のうちに無駄な時間と思って切り捨ててしまう。 そうして残ったものは何だろう。できあがった自分は何だろう。
 その投書文を何日も心にためて、反省した。孤独を感じられる時間を、もっと大切にしよう。恐れずに受け入れようと、。

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