ユーコさん勝手におしゃべり

9月27日
 実家に行くと父が、「茗荷が伸びすぎて、お隣の方まで行っちゃいそうだから切ってよ。」 と言う。
 家の裏手に茗荷が出るのは知っていたが、今まで採りに行ったことがなかった。茗荷採りは母の領分だった。今夏に母が亡くなってからそのままになっていた家の裏へ鎌を持って行ってみた。私の腰くらいの丈になった伸び放題の茗荷林の足元に、白い花が咲いている。純白より生成り色に近い。家屋と低い塀に囲まれた中で、地面から炎がたつように咲く幻想的な花だった。そのそばにはまだ花を持たない食べごろの茗荷が生えている。伸びた茎を刈りながら、茗荷の芽を拾ってビニール袋に入れた。
 作業前入念に虫除けスプレーをしたのに、蚊は容赦なくスプレーできない顔を刺してくる。
思えばこれが今まで茗荷採りをしない理由だったな、と遠い昔のことのように考える。
 作業が終って、台所の流しで茗荷を洗った。その後、買い物に行き、帰ってくると、父が茗荷入りの味噌汁を作っていた。
 子どものころは、独特の匂いがキライで、「何でコレが入ってるの?」と思っていた茗荷の味噌汁を、
 「おいしいねぇ」
 と言いながら、父と食した。

9月18日
 台風一過の青空に、スズメが片羽をひろげて羽づくろいをしていた。
 店の前の電柱の変圧器にスズメが営巣している。今年は梅雨時に雨が降らなかったのを幸いに例年よりたくさんの子雀を輩出した。
 今朝、3階の窓を開けると、目の前にある電線に、変圧器の下から一羽ずつスズメが出てきて、
 「あ〜〜っ」 と伸びをする声が聞こえてきそうに、濡れそぼった羽をひろげて上を向いた。
 窓から首を出して地面を見ると、店の前の道路には、風雨に打たれてはがれたポスターだの落ち葉が貼りついている。中にたくさんの白い点々が見えるのは、どこかで銀木犀が咲いたのが、咲いたとたんに散らされたのだ。
 階段を降りてほうきとちりとりを持ち、まぶしい雨上がりの外に出た。

9月15日
 つい最近まで、一人で電車に乗る機会があれば「読書タイム」だと喜んでいたのに、この夏母が急逝してから、本を持って出る気がしない。ふいにやってきた自分の物語が重すぎて、ひとの物語の中に没頭できない。
 単純作業はいくらでもできるのに、心のどこかに歯止めがかかって、心を動かすことをやめている。忙しさも手伝って、実際体はよく動き、以前より働き者になった。
 読まない生活をしばらく続けて、私にとって、読まないということは、書かないということなんだとわかった。 
 日常のちょっとした思い付きをメモ紙に書く。それがたまれば文章にする。そういう習慣で、いつもこの欄を埋めてきた。気付けば16年半になった。月の半ばまで何も書かなかったのは今回が初めてだ。
 先日、お休みをいただいて店主と温泉旅に出た。山梨の石和への一泊二日、平らなところは桃畑、斜面は一面ぶどう棚の中を車で走った。カバンに文庫本は一冊入れていたが、結局開かないまま持ち帰った。
 ゆっくり風呂に浸かった帰途、横浜の実家へ寄り、延びすぎて困っていると父が言っていた庭のキウイの枝を切った。 「天気がいいから、洗濯した。」と言う父の明るい顔に安心した。
 その後、二ヶ月放置したままの読みかけの文庫本を手にとった。岩波文庫の芥川龍之介の短編集で、『杜子春』を読む。様々な経緯を経て、杜子春は仙人に周囲に畑のある家を与えられる。それが桃の畑だというところで話は終った。
 笛吹市の桃源郷から帰ったばかりで、思わぬ偶然に顔がほころんだ。

8月のユーコさん勝手におしゃべり
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